凡汁日誌

じわっとしみでる凡人の汁。食べ物、芝居関係が多くなるかと。

現代の人間、観念的な話160214

今日は福島の般゜若に行った。
正確には国立国際美術館に行くまえについでに寄った。
明日の下見というか、話題作りというか
それが国立国際美術館に行った理由。
まあ、仕事しないのもなぁというのもあります。

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で、般゜若ではマトンのキーマン食べた。
これがもう美味しくてびっくりした。
したさきにピリッとくる系の辛さで、尾をひくのが気持ちい。
肉の旨味も閉じ込められていたね。
少しパサパサ感もあったけどよかったと思います。

国立国際美術館では「エッケホモ 現代の人間像を見よ」展を見ました。
こういう、キュレーションがある種のテーマをもつ展覧会は
一つ一つの作品はテーマの一例であって少し遠景に行ってしまうのかなと思った。
美術史的な研究の見地から、この作品はこういう文脈で見ることもできるでしょう
で、似通ったものを集めることで、新たな何かが浮かび上がるのではないか
もしくは観客の中に何かが生まれるのではないか
(ひょっとすると、これが正しい、という意図がある場合もあるかもしれない)
というのを期待して展示しているのではないか、と。
全体がキュレーターによるインスタレーションではないかと。

一方で我々観客はどこまでそうしたキュレーターの意図から逃れるべきなのか、と。
小谷元彦の《ターミナルインパクト》が僕にしては珍しく面白いなと思ったんだけど
現代の人間像とも、小谷元彦の意図とも違うところで面白がっていたと思う
(ターミナルインパクトの言葉の意味すらわからなかった)。
観客はそもそも勝手にみるからね(演劇も一緒か)。
ああそうか、そう思うと、まああんまり気にしなくていい気がしてきた。
批評家でも学者でも作家でもない鑑賞の仕方。

まあそれは編集としてはだめで、そこはそこでしっかり文脈を理解しないといけないんだけど。

現代の人間像、という言葉からは、いかに美術が最近まで寓意性の高いメディアだったかということが読み取れる。それを切り離して「人間」を見つめ始めたのはつい最近ということなんだろう。
(神話からは解放されても聖書から、ドグマからは解放されないのね)。
現代を生きる僕たちが、現代の作家の作品を見る時に
わざわざそこのエクスキューズを入れる必要があるということは
「美術」において僕たちの常識がそうした呪縛に囚われているということだろう(と少なくともキュレーターは思っている)。
確かに演劇は見たことのない人にとっては「リアリズム」だし、映画は「ハリウッド」だし、ジャズは「高尚で難しい音楽」だろうから、あまり触れたことない人ほどそうなのかもしれない。

でもまあそういうひとを対象とするにはなかなかに難しい展覧会だったんじゃないかな。
現代美術のもつ困難さと同じかもしれないけど。

考える前に向き合って、というのは経験者だからできることなんだよなぁ。

竹岡雄二の「台座から空間へ」は台座を作品とした奇特な人の展覧会。裏方根性(違う)。
乗せられなかった作品に想いを馳せたり、何を乗せるか考えたり、それそのものを見たり。いろいろな楽しみ方ができますね。

コレクション展はその竹岡雄二の作品から得られるキーワードから選んだもの。
倉俣史郎のガラスの椅子が、すごく美しいんだけど座ると割れそうで見ているだけどお尻がウズウズしました。

帰りに梅田で後輩の誕生日プレゼントを探す。
しかしあれね、もう全部東京で買えるんやなあ。
時間がないから今日買ったけど、持ち帰るのにかさばると壊れそうやから
あんまりやったかも…。ごめんよ。

で、伊勢丹寄ったら焼き芋売ってたので買って帰った。
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美味しかった。